レッド・ツェッペリンの詳細データ

レッド・ツェッペリン

基本データ

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概要

1968年にロンドンで結成されたイギリスのロックバンド。メンバーはボーカリストのロバート・プラント、ギタリストのジミー・ペイジ、ベーシスト/キーボード奏者のジョン・ポール・ジョーンズ、ドラマーのジョン・ボーナム。ブルースやフォークミュージックなど、さまざまな影響を受けたスタイルでありながら、重厚なギターサウンドで、ハードロックやヘヴィメタルの先駆者の一つとして挙げられている。レッド・ツェッペリンは、特にアルバム・オリエンテッド・ロック(AOR)とスタジアム・ロックの発展において、音楽業界の性質に大きな影響を与えたとされている。 結成当初、ニュー・ヤードバーズと名乗ったレッド・ツェッペリンは、アトランティック・レコードと契約を結び、かなりの芸術的な自由を与えられた。当初は批評家に不人気であったが、10年間の活動で8枚のスタジオアルバムをリリースし大きな商業的成功を収めた。1969年のデビュー作である『レッド・ツェッペリン I』は、いくつかの国でトップ10を記録し、「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」、「幻惑されて」、「コミュニケイション・ブレイクダウン」などの曲をフィーチャーしていた。『レッド・ツェッペリン II』(1969)は最初の全米ナンバーワンアルバムであり、「ランブル・オン」と「胸いっぱいの愛を」を生み出した。1970年には「移民の歌」をフィーチャーした『レッド・ツェッペリン III』をリリースした。『レッド・ツェッペリン IV』(1971)として一般に知られている題名の無い4枚目のアルバムは、3700万枚の売り上げを記録し、歴史上最も売れたアルバムの一つである。同作には「ブラック・ドッグ」、「ロックン・ロール」、「天国への階段」が収録された。「天国への階段」はロック史上最も人気があり影響力のある曲の一つである。『聖なる館』(1973)は、「オーシャン」、「丘のむこうに」、「レイン・ソング」を生み出した。2枚組アルバムの『フィジカル・グラフィティ』(1975)は「トランプルド・アンダーフット」と「カシミール」をフィーチャーし、彼等の音楽の多面性を見せ、4枚目のアルバムから『フィジカル・グラフィティ』迄の約5年間がアルバムの売上げや評価の高さと共にライブも充実した彼等の「黄金期」と呼べるものだった。 活動の中盤から後半にかけて行われた一連のツアーは数々の記録を打ち立て、ツアーの滞在先のホテルでのグルーピーとの乱痴気騒ぎは当時評論家から批判されたが今では伝説化している。 ペイジはバンドの活動初期に曲の大半を執筆し、プラントが歌詞の大半を創作した。ジョーンズが作曲したキーボードベースの曲は、活動後期に彼らの音楽の中心となり実験的な曲も増加したが、後期になるとペイジの薬物中毒も酷くなり、ラストアルバム『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』では、才能を枯渇させたペイジに代わりジョーンズの主導で曲作りが行われたと言われている。 また『プレゼンス』(1976)や『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』(1979)を含む作品の頃になると、プラントの車の事故や息子の感染症による急死等バンド内に不吉な出来事が起こりアルバムリリース間隔も空き、1980年のボーナムの死後に結局グループは解散する事になった。 その後、残されたメンバーは散発的に共演し、再結成を果たした。 これらの中で最も成功したのは、ロンドンで開催された2007年のアーメット・アーティガン・トリビュート・コンサートで、ボーナムの息子であるジェイソン・ボーナムがドラムを演奏した。 レッド・ツェッペリンは、最も売れたアーティストの一つである。彼らの記録的な総販売枚数は、世界中で2億から3億枚と推定されている。彼らはイギリスで連続8枚のナンバーワンアルバム、アメリカのビルボード200で6枚のナンバーワンアルバムを達成し、そのうち5枚のアルバムはアメリカでダイヤモンドの認定を受けた。ロックの殿堂のバンドの伝記には、『1970年代の彼らは、1960年代のビートルズと同じ影響力があった。』と記載されており、ローリング・ストーン誌はハードロック(ヘヴィメタル)に多大な影響を与えた彼らを「史上最もヘビィなバンド」「70年代の最大のバンド」、そして「疑いなくロック史上最も永続的なバンドの1つ」と表現している。(引用元)

ランキングデータ

項目 数値 順位
アーティスト 世界歴代売上枚数 3億 4位
ランキング
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